四人の恩人の大きな力
私が古今亭菊千代という噺家として、大好きなことを仕事としてご飯を食べていけている(かろうじてですが…)のは4人の人の大きな力があったおかげだと思っています。
両親のおかげ二人は両親です。私を生み、育て、そして見守り、応援してくれたこと。世間の親子関係、色々な事件などを見ると決して親なら当たり前とは言えない昨今、本当に私は幸せ者だなあと思います。
母は平成2年に62歳で他界しましたが、父に「娘にお父さんの物、洗濯させないで!自分のことは自分でするように」ときつく言って入院生活に入り、いわばそれが遺言になってしましました。その言葉をしっかり守って何でも自分でする父は、我が家から20分ほどのところに住み、そこで現役のソフトカイロプラクティック治療師をとして治療院を続けています。また最近は手話を習い始めたり、私が旅のときのインコたちの世話をしに自転車で駆け付けたりと大変元気です。
その父が先日、なんと単身アメリカに行って帰ってきました。若いころ米軍のお仕事をしていたころ仲良しだった方がアメリカに帰られてから、何度か行ったり来たりしていましたが、三十年近くは手紙のみのお付き合いでした。ところがいつの間にか父はフェイスブックで彼の娘婿さんと近況のやりとりをし、お父さんの九十歳のお祝いに来てくれないかと誘われたらしいのです。
シカゴ経由でミシガン州のフリント空港まで、14時間の時差、待ち時間含めて20時間近い旅を往復こなして帰ってきました。いくら英語ができるとはいえ、30年近くネイティブな会話はしていないのですから、緊張はしていたようですが、あちらのお孫さんたちにはおじいちゃんおばあちゃんと同じだからと、大事にされ、大学で健康についての講義までさせてもらったり、色々楽しく有意義に過ごせたようで、本当に行ってよかった!と意気揚々と帰ってきました。私も父を送る時には、今まで散々ピースボートのスタッフにしてもらってきたことが身になっていて、父の手続きを手伝うことができ、嬉しい思いをしました。
86歳で、アメリカまで行けるということは私もまだあと30年ぐらいは大丈夫なんだなあ、と勇気をもらいました。
師匠円菊の三回忌を迎えました。
三人目は、二年前に他界した師匠、古今亭円菊です。噺家になれなかったら、弟子にしてもらえなかったら、死のうと本気で思っていた私を、自分のリスクも顧みず弟子にしてくれた命の恩人、何よりも円菊の弟子だったから今までやってこられたのです。一昨年亡くなって今年が三回忌、10月に法事を終えましたが、なんと師匠の命日10月13日は、師匠が熱心に信仰していた日蓮宗の宗祖、日蓮上人の命日と一緒だと知り驚きました。さすが師匠!という感じです。
だいたいどこの一門も師匠が亡くなるとばらばらになってしまうところが多いのに、我が一門は不思議なくらいに更にまとまりました。これもひとえに師匠の厳しい教えのおかげです。
師匠が亡くなってから一門会が増えるなんて本当に素晴らしいことです。あとは、なるべく早く、息子である菊生が円菊の名前を襲名することを、私の一存ですが願っています。
9月20日私の大好きな、
尊敬する土井さんが亡くなられました。
そして四人目は第二の師匠として尊敬してやまない土井たか子さんです。そもそもは私が二ツ目になって、若手女流芸人の会「撫子倶楽部」という会を立ち上げた時にゲストとして応援にいらしていただいたのがご縁の始まりでした。
亡き母がファンで、土井さんを呼んだら!という一言がきっかけでした。もちろん、当時社会党の初の女性委員長として様々な問題と戦っていた雲の上の人が、芸人の会に来てくれるとは思えませんでした。けれども、ダメでもともととお手紙を書くと、秘書の五島さんがしっかり受け止めてくださり、土井さんに「行ってあげて」と進めてくださったのです。
母が亡くなった時には心温まる長い弔電とお花をいただき、それから私の真打が決まり、東海道五十三次でのつらい修行の旅の折には、京都の三条大橋で花束を持って迎えてくださり、真打披露パーティには先代の柳家小さん師匠の隣の席で笑顔を振りまいてくださいました。
私にできることはあまり有りませんでしたが、土井さんの選挙には何回か応援に行かせていただきました。その頃の私は今のように、平和のありがたさなどあまり考えていなかったので、政治のこともよくわからず、ただただ土井さん大好きですというばかりの応援でしたが、震災後の神戸の仮設住宅や、地元の講演会で土井さんが見えるまでのつなぎをさせていただいたり、名誉なことこの上ないことをたくさんさせていただきました。
土井さんが北海道の選挙の応援に行かれるのを手伝ってほしいと言っていただき、一緒に党首コース・黒塗りの車での移動、空港待遇、そしてお土産売り場での土井さんのおちゃめなお買い物風景、東京に帰ってからご褒美にごちそうになった燕グリルのハンバーグ…。鈴本での暮れの東西女流の会にはたびたびお越しいただき、六月の菊千代バラエティ笑にはゲスト出演もしていただきました。好物のお大福を差しあげるととても嬉しそうに口の周りを白くして召し上がっていました。
私がピースボートと巡り合い、北朝鮮に行き、平和についていろいろ考えるようになって、土井さんに興奮して報告したりすると、「まあまあ、菊千代ちゃん落ち着いて…」と逆になだめられたこともありました。そもそも土井さんを支える会で知り合った方々が今も私の宝物、ご縁はすべて土井さんのおかげです。暮れには土井さんの大好きなカラオケもご一緒しました。またそのお席でも素敵な方々と知り合うことが出来大きな財産になっています。
お身体を壊され、地元にお帰りになってからは一度もお目にかかることができませんでしたが、うちの仏壇には若々しい土井さんと元気だった母のツーショットの写真が飾ってあります。この菊千代ごよみを発行している菊千代後援会、会長はいません。名誉会長土井たか子さんのみです。名誉会長なので天国で見守っていただければと思います。大好きな土井さん、いつまでも菊千代を応援して、見守っていて下さいませ。
足助のかじやさん広瀬さんとの突然のお別れ
前号でも報告いたしました、大好きな豊田市足助町、毎年参加しているたんころりん祭りでの路上ライブ、私の大事な年中行事の一つですが、その窓口になり、またご自身のライブハウス「足助のかじやさん」では落語会も主催してくださっていた広瀬さんが、8月29日急性白血病で亡くなられました。
今年1月には江東フォークフェスティバルに参加、各地でライブ活動を繰り広げ、9月13日はまた上京して大森でライブをする予定でした。7月に落語会をしていただいた時にはお元気で、そんなことになるなんて誰も思いませんでした。その後、病気を発症し、余命を告知された時も東京でのライブは絶対行く!とおっしゃっていたそうでしたが…。あまりにも早い、急な、残酷なお別れになってしまいました。ご家族の寂しさを思うだけでも辛いばかりです。広瀬さんの優しい歌声、お茶目な笑顔忘れません。ご冥福をお祈りします。